エッセイ 伝の会TOP 戻る

音色  1999.5執筆

和佐次朗師匠がいなくなってもうすぐ半年がたちます。

僕にとって邦さんにとって、師であり、そしてなにより伝の会を育て大きくしてくれたの が和佐次朗さんです。伝の会のお客様には知らない方も多いとは思いますが、スッゲー三 味線弾きだったんです。長唄の先生方で、もちろん和佐次朗さんを知らない人はいなかったですし、和佐次朗さんの「音」を聴いて唸らなかった人はいないはずです。僕ら若手の中でも「まぼろしの三味線弾き」的な人でした。僕は そんなすごい人のそばに居られた幸運な三味線弾きです。残念なことにこの場では和佐次 朗さんの「音」を伝えることはできませんが、僕の心の中の和佐次朗さんの「音色」を綴 っていこうと思います。

昨年(1998)の12月29日午後12時30分、入院中の徳島の病院で和佐次朗さんが亡くなった 。脳へ繋がる血管が詰まっているので手術をし、元気に回復にむかっていたのに、もとも と悪かった心臓が弱ってしまったのか、とにかく急なことだった。年末の帰省ラッシュの ため飛行機に空席は見つけられないので、新幹線で新神戸まで行き、むかえに来てくれた 車で徳島の和佐次朗さんのもとに駆けつけた。

「アホかあ、ウソじゃ、ワシが死ぬかっ、ホンマにきよったかアツシ、ハハハっ。」

という言葉を期待して。そう言われても決して怒らないぞと心にまで誓って。通夜・葬儀 を行う会場に着き、階段で泣き崩れているお弟子さんの姿を見たとき、現実のものと知っ た。

僕と顔を合わすと皆が泣く。僕も泣く。ちょっと待てよ、まだ俺は合っちゃいないぜ。ほ んとかどうかも確かめてないのに、なんで皆泣くんだよ。待て待て待て。和佐次朗さんに 会った。冷たかった。オヤジ(鉄十郎師)も孝次郎師も忠五郎師も、そして僕の大好きな 和佐次朗さんのお弟子さんたちも、みんなが事実を知っていた。・・・・

和佐次朗さんは師匠(鉄十郎師)の先輩で年齢もひとつ上の昭和9年生まれ。僕は20才 で師匠(鉄十郎師)のとこへ内弟子に入ったから、お供で師匠のカバン持ちをしてる時に 、もちろん和佐次朗さんにも紹介されただろうし、ひょっとしたら言葉も交わしているの かも知れないが、全然覚えていない。僕の記憶の中ではっきりと覚えているのは、明治座 の近所の喫茶店だ。師匠のカバン持ちをして行った、その喫茶店に和佐次朗さんがいた。 見た目がすっごく怖かった。きっとそれ以前の記憶がないのも、和佐次朗さんは怖い・恐 ろしいと思っていたからだろう。

和佐次朗「あきちゃん(鉄十郎師のこと)、こいつ、そろそろ名前とらしたらどうや」
鉄十郎「うん」
この会話だけが、はっきりと覚えている。そしてこのときの和佐次朗さんの声が僕の耳の 中にこびりついている。
僕は和佐次朗さんの声が大好きだった。
でもその時は、声と容姿を見て、「あちゃー、絶対ヤ○ザだ、うん、間違いない」と思っ ていた。いやホント。

和佐次朗さんと親しくさせてもらってから、よく和佐次朗さんが言っていた。
「アツシが来たときはなー、暗いやつが来たと思っとったんや、ほんま暗かったなー、今 も三味線弾いてるときの顔、つまんなさそうに弾きよって、もっと明るく弾け。フダンは こんなんなんやから」
「こんなんってどういうことです」
「ハハハ・・・」
確かに内弟子に入ったころは暗かったんですが、松永の人(先輩)は、見る人見る人みん な怖くて、僕はビクビクしてたんでしょうな。


エッセイ 伝の会TOP 戻る