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鉄九郎の青?裸々な日常 第38号


2001年1月16日〜23日

1月16日(火)
 今回のお芝居(京都南座での前進座公演)での僕らは舞台に出ないで下手の「黒みす」と呼ばれる所で弾いています。「黒みす音楽」と呼ばれています。長唄の演奏とか舞踊の地方(ぢかた)としての演奏とはちょっと違います。ちょっとどころか、まったくの別ものと思ってるな。職種が違うと言ってもいいのではと思うくらい。唄も三味線も違うのです(どう違う かはいずれまた)。
 だから今月ずっと黒みす音楽を弾いているので、長唄をスッと弾けないなにかがある。明日(「京都かぼちゃ亭ライヴ」)のために「綱館」を浚ってもどこかが違ってていつもの調子がでない。妙なものである。体のどっかがギクシャクしてる。撥のタッチが長唄になんないような・・・素の演奏としての長唄・舞踊の伴奏として長唄・そして黒みす音楽、みんなどうやってこなしているのだろう。長唄の人ってすごいなぁと常々思う。

1月17日(水)
 本日昼公演のみ。それを利用して夜は「かぼちゃの花」で伝の会をすることになっている。今年で三回目、月日のたつのは早いものである。たくさんのお客様に来ていただいた。いつもここでのライヴ邦さんと二人でやっているが、今回、勝 彦(杵屋)さんに来ていただいて「綱館」を演奏する。長唄を今年初めて演奏させてもらった。

1月19日(金)
 鳥の水炊きをごちそうになる。ここのオウチのがまたおいしいといった らない。鴨川眺めながら鍋つついてよござんすな。たまにはこうしてゆっくりと歓談 しながらお食事をいただきたいものである。

1月20日(土)
 いちだんと寒い朝だなと思ったら、午後雪が降った、チラチラというよりドカッという感じ。夕方おもしろがって外へ出てみたらみぞれになっていた。しばらくしたら雨になりびしょ濡れになった。損した感じ。雪の方がいいよな。昨日、ある女将にリーズナブルでランチがおいしい店を何件か教えてもらった。早速邦さんサトシくんと出掛ける。知る人ぞ知るというようなステーキハウスで丁寧なランチを格安の値段でやっていた。もちろんおいしい。明日はどこに行こうかと盛り上がる。

1月21日(日)
 ホテル暮らしのいいとこは、帰ってくるとベッドを始め部屋がきれいになっているとこ。どんなに散らかしてあっても(そうは散らかさないが)お掃除してくれる方がきちんと整頓しておいてくれる。無くしたと思っていたボールペンがちゃんとテーブルに置いてあったりする。長期滞在の場合に限らず「この部屋の主はだらしないな」と思われたくないので出掛ける前には自分なりにキチンとしたりする。暖房や電気の消し忘れなど家にいるときは注意するもののホテル暮らしの場合は以外に忘れていたりする。
 夏なら冷えた部屋、冬なら暖かい部屋に帰りたいという、ささいな願いのために何時間もエアコンをつけっぱなしにするなど、罪の意識をあまり持たずについついやってしまう人が多かったりする。家で使う電気もホテルで使う電気も同じ資源には違いないがついついおざなりにしがちなものだ。どうせお掃除の方が消してくれるだろうとの計算もある。しかし消し忘れが癖になると掃除後に部屋を出るときにも当たり前のようにつけっぱなし状態にしてしまう。良いことではないなと思う。
 今夜いつものように部屋に戻ってみると、部屋の電気も暖房もついていなかった。もちろんである。消して出ているし、忘れていてもお掃除の方が消してくれているはずだ。しかし、しかしである。テレビがついていた。えっ、部屋に帰ってすぐにテレビつけたのかな?酔っぱらってはいないはず。おかしいぞ。テレビのコントローラーはお掃除の方が必ず置く所定の位置に置いてある。僕が使ったあとは絶対に置かない場所である。ということは、僕がつけたんではないということだ。じゃあ誰?タイマーセットでつくようなテレビではない。ましてや部屋を出るときライトは消し忘れてもテレビをつけっぱなしで出るということは考えずらい。ということは誰かが見てたの?知らない人が僕の部屋でテレビを見てる?誰が?キーはどうすんの?
 考えられるのはひとつ、お掃除の方が見ていたということ。どうしてもみたい番組があった。仲間とゴシップで盛り上がり「ワイドショーでやるわよきっと」ってなことになりベッドメイキングしながらついテレビをつけてしまった。けれどお目当てはなかなかやらない。掃除機をかけるだんになってもまだやらない。音声は掃除機の音でかき消されている。掃除機もかけおわった。「なあんだ、やんないじゃない」と思いながら掃除機かけながら部屋を後にしてドアをしめた。読めたぞ。うーんほんとかなぁ?

1月22日(月)
 今日のお昼は穴子天丼。お昼を食べに行く時間が12時すぎという世間様のランチタイムと同じ時間なのでちょいとおいしいところなんぞだと行列をしているのではないかと心配になるが、どうやらその心配は東京のラーメン屋に限るようで(でもないか)。そのてんぷら屋さんも、そりゃあ有名なところなんですが、全然平気。おいしかった。
 邦さんの早食いは有名で(知らない人でも想像はつく)食事をするとき、邦さんよりも先に料理が来たので「お先に」とい言って食べ始めても、じきに「お先に」と言って食べ終わってる邦さんがいたりするほどである。とくに自分が後から食べ始める時は、早食いにいっそう力が涌いてくるのだそうだ。負けたくないのかなにかは分からないが邦さんだけの美学がそこにあるのだろうと思うようにしている。
 急いで食べたあと
「楽しい時間というのはあっという間だね(笑)」
「おいしかった?味はどうだった?」
「何が?(笑)」
「いや今のカツ丼の味だよ、ちょっと辛いとかあるじゃない」
「ばかだなー、こんなもん味わっちゃいけないよおまえ、カツ丼なんてぇのは、喉ごしだよ(笑)」
と三つの爆笑点も必ず生まれる。アホヤッ。この笑いが欲しいために早食いなのかなぁ。
 穴子丼も僕が半分食べたかな、くらいのとき、隣で「ああおいしかった」と空の丼を前にニコニコしていた。しばらくすると、ご主人が「どうぞお塩でお食べください」と邦さんの空の丼の中へ穴子のてんぷらをポイッと入れた。もちろん僕にはそんなサービスはない。早食いも得なことがあるんだなぁ、としみじみ思った出来事でした。

1月23日(火)
 京都に来て二十日がすぎた。あと一週間。もうあと一週間?
 ニュースを見てない。新聞も読んでいない。四条という町の中でポツンと仕事をしているだけで、日本という国で何が起こっているかを知らない。その代わり、空や川や風や温度を感じるようになった。自分の体調や息切れや歩く速度や手の振り方や。移動も全て歩き。電車や車に乗ることもない。なんかすごく贅沢な気がする。「もうこんな時間」とか「まだこんな時間」と思うことがない。時計の針と呼吸の速度があっているような気がする。
 いろんな情報っていらないときもある。とりあえず頭に入れておこうという情報を年にいっぺんぐらいリセットしてもいい。すると人の目を気にしない自分の顔と出会う。はたしてその顔を見て自分はどう感じるか?
 今までその顔を見るのが嫌だった。飾っていたかった。見えにくくしていたかった。でも今年その顔を見たとき、不快感はなかった。これもいいかなと思った。自分は自分が思っているほど「いい奴」ではなく、自分が悲観するほど「ヤな奴」でもないんだろう。好きになってもらいたいと切に思うほど嫌われてもいなければ、おごるほど好まれてもいない。そんな自分のことを好きでもないし嫌いでもない。ただそんな「自分」を責任もって「やって」いかなければいかないということ。それは「楽」なことでもなければ「つらい」ことでもない。ただ「楽しみ」なこと。人生を歩いて行くことは「楽しい」ことだ。嫌なことやツライことがあれば、ちょっとのことで楽しいと思える。楽しいことばかりだと楽しいことに気がつかなくなる。
 娘が電話で「あと一回サザエさん見たらパパ帰ってくるんだって?おみやげ買ってきてね」と言った。おみやげを買うのが苦手な僕は「何がいいかな?」と言うと「ちょっとしたものでいいのよ、それがとーってもうれしいのよ」と言った。またひとつ子供に教わった。


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