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鉄九郎の青?裸々な日常 第40号


2001年2月13日〜24日

2月13日(火)
 邦さんとマンダラのお稽古をする。今回「ドクターてつくろ&ナースくに子」で使う曲は、よしだたくろうの「もう寝ます」。この曲を邦さんも知っていたというのが、とってもうれしくて感動的だったほどだ。「ともだち」というアルバムの中の収録曲で、たぶん1970年か1971年くらいに発表されたはず。僕は小学校五年の時に、たくろうに目覚め、少ないお小遣いをためてはアルバムを揃えていった。フォーク全盛というか日本のロックの始まりのころというか、さまざまなバンドが新しい音をひっさげて世に出てきた頃である。「ともだち」を買ったのは1973年で僕は中学一年になっていた。ギターを抱えてハーモニカフォルダーを首から下げ自分で曲を作って歌ったり、学校でフォークバンドをつくったりしていた。そろそろボブ・ディランに衝撃を受けていたころだ。  「もう寝ます」の歌詞は邦さんも僕もだいたい覚えていたが、正確にということでアルバムの歌詞カードを見ようということになった。稽古場になっている実家のどこかにあるはず。決して大きな家ではなく、こぢんまりとした平屋だが、探すとなると大変だ。父に聞けば、どの部屋にあるかはわかるだろうからと「とーさん、僕のレコードはどこにしまってあんのー」と一応声をかけてみたが、遺影は笑っているだけである。それでも各部屋をウロウロすると、なんとなくここかなという所が見つかった。あったよあったよ。なんのことはない、僕の部屋だったとこの押入奥にドドッとLPレコードがしまってあった。いやー、確か20年前、この世界に入ったときに、もう邦楽以外は聞かないと心に決め、全てのレコードを処分しようと思ったのだけど、未練たらしい僕はそれが出来ず、「これは処分できない」というレコードだけは残したのだった。やっほー、未練たらしくて良かったー。うー、実家はタイムカプセルだー。「ともだち」もなんとか見つかる。まさか買って28年後にこのアルバムがこんな形で役に立つとは。しかも僕は三味線弾きになっていて「もう寝ます」を三味線で演奏して歌うとは・・・。人生、どこでどうなるかはわかったもんじゃないな。うーーむミラクルぅ。

2月14日(水)
 お稽古日です。今日がバレンタインデーとは知らずに決めた。なんかチョコ欲しさに今日お稽古日にしたと思われたらいやだなあ、などとヘンなことを気にしながらお弟子さんを待つ。夜になって娘も来てお弟子さんに遊んでもらったりしていた。すっごく寒い。10時すぎにお稽古が終わり、娘と二人で稽古場から外にでると、サラサラの雪が降っていた。「ゆきがふってきちゃって、もーたいへんだよ」と娘が言う。僕は真っ暗な空を見上げた。「ぱぱ、ゆきがかおにいっぱいになっちゃうよ」大きな闇から、白い雪がフワフワと確実に僕の顔に着陸してきた。「ほらっお前もやってごらん」「こわくない?」「こわくないよ」「うわー、いっぱいくるね、どっからくんの?」「空だよ」「まっくろだね」「真っ黒な空から真っ白な雪っておもしろしね」娘はキャハハハーと笑った。

2月15日(木)
 望月晴美さんの仕事で世田谷の小学校で演奏のお手伝いをさせていただく。そのあと南青山マンダラライヴのため青山へ移動する予定。小学校で2ステージやり、出るのが午後2時すぎ、青山には午後3時すぎには入りたい。ここで問題です。移動手段は車か?電車か?確実なのは電車、けれども荷物も多いしできれば車で移動したい。結果、邦さんは電車で僕は車で移動するという名案を思いついた。まあ邦さんと僕のどちらかがマンダラに早くつけば段取りはこなせる。よーし、小学校からマンダラの移動方法は決定した。小学校へ行く手段はどうしよう、お互い荷物も多い。これも簡単、僕が荷物を積んだ車で邦さんちへ迎えに行き、邦さんの荷物と邦さんを積んで世 田谷へ向かう・・・完璧。ほほほ。
 朝7時30分起床、よしよし寝坊しなかったぞ。8時ちょい前出発、邦さんちまでは30分あれば着く。軽快に車を走らせていると、左折の時にドカッと音がした。なにかにぶつかったか踏んづけたようだ。ま、気にしない気にしない。シューとか後ろの方で音がしているが、ま、気にしない気にしない。ガタガタと道が悪くなったようだ、見たところきれいに舗装されているのになぁ。どんどんひどくなってきたぞ、まわりの車は快適に走っているのに、どうやら僕の車だけがガタガタしているようだ・・・。
 さあ路肩に止めて降りてみよう、後方左のタイヤはきっとペシャンコになっているはず。さあどうしよ?邦さんに電話。「じゃ、迎えにいくよ。俺の車で行こう」スペシャルチャーハンを作って(朝から)、今まさに食べようとしたところに僕から電話がかかってきた邦さんは怒りもせずそう言ってくれた。しかも近くのガソリンスタンドでパンクをなおす手はずまで整えてくれていた。いやーまた助かっちゃったな。白井くんに車を取りに行ってもらう手はずをとり、邦さんの運転する車に荷物を積み直し、いざ出発。頭が痛くなるほど楽しいメンバーと楽しいステージを終え、青山へ移動。当初電車で移動するはずだった邦さんも「道が空いてそうだから」という理由で一緒に車で行く。午後三時過ぎにマンダラ到着。いつものスタッフと打ち合わせをしてリハーサルをやり午後七時開演。やる方も聴く方も妙にリラックスしてた不思議なライヴだった。打ち上げの時にはドロドロに眠くなっていた。家へ帰ってホッとして「さあ寝るかな」と時計を見たら午前3時。21時間おきてたぞ。

2月16日(金)
 「長崎ぶらぶら節(テレビ朝日で4月末に放送予定の特番)」の主人公は愛八という芸者で市原悦子さんがやっている。撮影に入る前からうち合わせを兼ね何度かお会いしているが、独特な雰囲気を持った素敵な方だ。今日はいくつかの唄と三味線の指導をさせてもらった。

2月17日(土)
 白井くんの運転で千葉に向かう。ついにお弟子さんに車を運転してもらって仕事場に行く時が来たかぁ。いいねぇ。などとボーッとしているため、ろくにナビゲートも出来ず、首都高速を間違えて乗ったり、道をまちがえたりで遅刻した。今日は千葉大学の「ニホンノヒビキ実行委員会」が送るライヴの日。打究人と伝の会という出演者の決定から制作の全てのことや宣伝、舞台進行までも、とにかくぜーーんぶ彼ら学生たちが作りあげた。すごいことをやるもんだねぇしかし。チケットも完売だそうで当日券を求めて早くからお客さんが並んでいる。長い時間ならんでいるのも退屈だろうからとロビーに置いてある地唄の三味線で「ミニ伝の会」を。午後七時開演、午後九時過ぎ終演。楽しいライヴをさせていただいた。打ち上げにもちょっと顔を出せた。この公演についてはホームページもあることだし、興味のある方はのぞいてみて下さい。

2月18日(日)
 ねむーーい!・・・が、起きなければなるまい。シャキっと起きる。昨日今日の二日間、娘の幼稚園で「てんらんかい」をやっている。子どもたちがいろいろなものを作って飾ってあるのだ。年少の娘は、足形をとって色をぬったものや自由画などがあった。年中、年長と観ていくと、あきらかに作品の完成度が高くなる。この年頃の三年間というのは、とても大きな成長期なのだなぁ。年長では、好きな二字を習字で書いてある。「つき」「ゆき」「ねこ」「にじ」などの中に「ねじ」「すし」など微笑んでしまう二字もある。「ぎた」というのがあった。「ぎた」?なんだ?ラーメン香月の油多めのことしか思いうかばん・・・ま、とにかく、みんな味がある字でびっくりした。このまま育つと感性豊かな子どもたちで溢れそうだ。そうなったら良いのになぁと思わずにはいられない。

2月19日(月)
 ご近所の方が亡くなり、告別式に娘と出かける。昨年、父の葬儀に立ち会っているだけあって、お焼香もあざやかなものだと妙な感心をした。僕が初めて「身内の死」を体験したのは14才のときに祖父が亡くなったときだった。「死」というものをもう理解している年。娘は二歳で曾祖母を亡くし四歳で祖父を亡くした。毎日顔を合わせて遊んでくれていた身内が突然横たわって二度と動かないということをどう受け取っているのだろうか?「まだ幼いからわかんないのよ」という人も多い。僕もそんな風に思っていた。でもそれは間違いだと彼女を見ていたわかった。たった二歳のときでも彼女は彼女なりに身体で「死」というものを見つめていた。もうこれで遊んでもらえなくなっちゃったことや二度と会えないことを。そして曾祖母のことも祖父のことも忘れないように努力をすることを。幼子を見くびってはいけない。一番素直に「生」と「死」を知っているのは、ついこの間この世にやってきた彼ら彼女らなのかも知れない。
 告別式が行われた斎場は父をお骨にした斎場だった。「おまえのおじいちゃんはあっちの式場で最後のお別れをしてお骨になったんだよ」と言うと、娘は一生懸命背伸びをして、おじいちゃんと最後のお別れをした式場の方をいつまでもジーッと見ていた。

2月20日(火)
 「長崎ぶらぶら節」の三味線音楽の録音のためアークヒルズのテレビ朝日放送センターへ。それぞれのシーンを話してもらい、雰囲気や場面を想像しながら自分のテンションをコントロールして進めていく。晴美(望月)さんはじめ、何人かの仲間と録音する。終わるとスッカラカンの自分がいた。

2月21日(水)
 この三日間あたたかな日が続いている。このまま春になってくれればと期待をしてしまう陽気だ。「自転車に乗りにつれてって」と以前から娘に言われていた。今日、なんとか時間を作り、公園に自転車を持っていって思う存分遊ぶことにした。
 車に娘の自転車を積み、光が丘の大きな公園に行った。「ここはね、お前が赤ん坊のころよく乳母車で来たとこなんだよ」「へぇー、ははは、しょうなのぅ」・・・「自転車うまくのれるようになったなぁ、一人でこげるのか?」「もうずーっとまえから、し(ひ)とりでのれるよ・・・どこかなぁ、あしょぶとこがあんだよな」「えっ、なんで知ってんの?この公園に来たことあんの?」「うん、じいじとまいにちきてたよ。あっちのほうであしょぶんだよ」父は娘と毎日買い物に行ったり公園に行ったりしていた。しかしどこの公園に行って遊んでいるのかが娘に聞いても的を得ないし、父に聞いても僕にはピンと来なかったのだ。ここの公園だったんだ。毎日、父が孫娘と何時間も時を過ごしていた公園って。当時娘は「じいじに○○ののりかたをおしえてもらったんだよ」とうれしそうに言っていた。毎日父が好きなだけ遊ばせてくれていたので日焼けしていたものな。そうかぁここだったんだ。赤いセーターを着て黒のジャンパーを着た父と、キャッキャ言いながら遊んでいる子供の姿が見えるようだ。「なつかしーなぁ」といいながらすべり台やジムで娘はうれしそうに遊んでいる。じいじに教えられた順番どおりに、じいじに教えられた規則どおりに。この公園は父と娘の心を結んでいた特別な公園だった。父はどんな気持ちで孫娘と遊んでいたのだろう?僕の子どものころを思い出したり、僕の母にそっくりな顔の孫娘の中に、自分が妻と過ごした若き日をを見たのだろうか?きっといろんなことを思ったり思い出したりしたんだろうな。娘の成長を近くでもっともっと見ていてもらいたかったと悔いが残っていたけど、この公園で孫娘とすごした時間の中で、父は孫娘としっかり心を通 わせ、また、人生を振り返る時間があったんだと思った。「おかいもののかえりに、じいじこうえんつれてってっていうとね、ぜったいつれてきてくれたんだよ。じいじ、しんじゃったけどしゃ、こんどはパパがつれてきてくだしゃい、おねがいします、ペコリ」「い、いやっご丁寧にこちらこそ、ちゃんと父の後を引き継ぎますので・・・じゃ、コンビニでソウケンビチャでも買って飲もうか?」「やったー、じいじはアメもかってくれたよ」じいじのやつめ、お菓子は買わないでと頼んでいたのにー!!

2月23日(金)
 「今日は○○に行ってくるよ」と言うと娘が「いつかかえってくりゅ?」と言う。「いつかってあんた、うーん夕方かな」という会話がこのところ毎日、娘としている。以前は、「いつ帰ってくる?」なんて聞いたことなかったのに、まあこれも成長かな?とやり過ごしていたが、今日も「いつかかえってくりゅ?」と聞くので「さぁ?」と言うと、涙をためた。あわてますよー、なになに?最近ヘンだよ。なんかあったの?とオロオロした。どうやら僕が28日から十日間留守にすることを知っているらしい。28日がいつなのか、今日か今日かと、毎日思うらしい。「まだ五回寝てからだよ」と言うと「あっ、しょう」とピンと来てない様子。まあ寂しがってくれるのも今のうちかぁと複雑な思いである。妻が「パパがいなくなるって言っても今度は短くて、サザエさんを一回見たら帰ってくんだよ」とい言うと「なあんだー」と合点がいったようだ。日時の経過はサザエさん何回見るという尺度らしい。うーん、やるな「サザエさん」このままの尺度だと「パパぁ、今度はいつ帰ってくんの?」「ああ今度はね、2サザエさんだよ」「へー、2サザエさんかぁ、こないだは4サザエさんだったから、その半分だね、おみやげ買ってきてね、たらちゃんの履いてるくつがいいなぁ」「わかりづらいがな!」という会話がなされるのも近いであろう。
 「パパにおてがみかいたからもっていってね」と、らくがき帳を一枚もらった。そこには少しずつ書けるようになったクレヨンの字で「さくらんぼをたべさしてください パパいつかかえて(帰って)きてね」と書いてあった。「いやっ直ぐに帰ってくるがな!それにさくらんぼくらい食べたらいいがな!」とツッコミたいのをこらえて「おう、ありがとうよ、大事に持っていくよ、これで寂しくないな」と言うと、娘は「いつかかえってくだしゃい」といいながら涙声になっていた。「おまえ言いながら感極まったなー!」とツッコミたくなるのを押さえて「おーよしよし」と抱っこすると「サザエさんとぉ、じょー(両)さん(こち亀のこと)とぉ、がっこーのかいらん(階段)をいっかいじゅつみたらかえってくんだよね、なあんだしゅぐ(すぐ)じゃなーい、あとなにみよっかなぁ」と言った。「だからすぐ帰って来るっていったろーが!それに、なんでも見たらイイがなー!」今度は押さえられなかった。

2月24日(土)
 来年の八月末に伝の会で狂言舞踊をやることになっている。二月から稽古に入ると宣言したため、なんとしても今月中に一回はお稽古をつけていただかなければと自分を追い込み、ついに七々扇左恵師匠のもとへ行く。左恵ちゃんは僕が日芸に入学していれば同級生、つまり同い年、昨年イタリア・ドイツ・デンマークツァーも一緒に行った気心の知れた先生なのだ。基礎の基礎からお願いしますと頼んだ。腰をいれて歩くなどは遠い話で、腰を入れた時点で汗びっしょり。ものの五分で「足というのは間接も筋肉もあるものだなぁ」としみじみとわからせてもらった。腰を入れたら一歩も足が上がらないし、第一バランスがとれない。もうだめ・・ほんとにもうだめ・・・ライヴ二時間やってもこんなに汗かかない。踊れる人ってすごい。踊れるようになりたい。うーーー・・・稽古終わって駅までの2.3分の距離を10分近くかけて歩く。うーーなさけなー。蟻に抜かされそうな速度だ。
 僕の母は花柳綱司と言って日舞が好きで好きで、幼いときからお稽古していた人。母の舞台やお弟子さんに教えている姿を子どもの頃から何気なく見ていた。母の師匠や周りの人も僕を舞踊家にしようと働きかけていたこともあった。二つ三つの頃は「何か」を踊ったらしい。その後、「絶対踊りはやんないっ」という僕の意見がとおり、僕を踊りの世界に入れることはあきらめた。それから数十年が経ち、このような形で踊りの稽古を始めるとは。しかも今度は自らすすんで。うーーん人生とは実に皮肉なものだ。今のこの姿(蟻に抜かされてるも含む)を見たとしたら母は喜ぶだろうか?情けないと思うのだろうか?ただ、今日はっきりわかったことがある。「お母さんねっ!僕がどんなに嫌がったとしてもねっ!無理矢理踊りさせといてくれたら良かったじゃない。子供がヤダーと言ったくらいで辞めさせなくても良かったのにぃ。子供の意志など尊重するなー!40過ぎからはちとシンドイぞー!!」


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