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鉄九郎の青?裸々な日常 第50号


2001年6月18日〜7月9日
祝50号!豪華二本立て 三人吉三と立派な風邪/環八と通いの巡業

三人吉三と立派な風邪

6月18日(月)
 仕事から帰って家のソファーでコロッとなっていたら突然の悪寒。ゲッ、な、なんだ!?声も出ないぞ!「ク、クーラーけしちくりぃ」と、か細く言って動けなくなった。しばらくたっても悪寒はいなくならない。だ、だめかもわかんない。どうなっちゃうんだろ?とにかく寝てしまおうと、ベッドまでなんとかたどりつき倒れる。寒くてしかたがない。
 目が覚めたら2時だった。まだフラフラする。汗でビショビショになったシャツをなんとか着替えてまた寝る。ど、どうやら風邪かも。でもこんな症状初めてだ。

6月19日(火)
 起きたら悪寒はなくなっていた。フラフラするが自転車に乗って病院へ。「立派な風邪」との診断。へーっ、風邪って咳とかクシャミとか出ないのもあんだぁ、と呑気なことを思う。夕方まで薬飲んで寝る。今日は夜一回公演で良かった。休みだともっといいなぁと贅沢なことを考える。午後5時、なんとか支度して電車に乗る。なんか歩くのもつらい。ましてや人がいっぱいの渋谷に向かうのは、まさしく戦場に出かける気持ちだ。
 しかしこういうときって自分のことより、みんなに迷惑かけたくにないと考えるもんだ。一緒に弾く邦さんにわるいなぁ。しかも今夜はNHKの録画撮りの日。ウーーーー。

6月20日(水)
 昨夜帰ってからうどん食べてバタッと寝た。そのせいか、はたまた薬が効いたのか、今朝はちょっとマシになった。でも昼夜公演あるし大丈夫だろうか?心配しいしい出かける。フラフラはしないぞ、イイな。昼の部、なんとか大丈夫だった。楽屋でのシャベリも調子が良い。アラッ、なんか元気だぞ。夜もいけるかな?「あんまりはしゃぐんじゃありませんよ」と仲間たちにたしなめられる。でもなんか元気なんだもーーんっ。どうやら治ったぞ。夜の部も大丈夫だった。「よし、肉食おう!肉食べにいくぞー!!」

6月21日(木)
 都税事務所に行くがお役所の人って随分やさしくなったなぁ、気持ちが良いほどやさしいぞ。昼、いつものようにコクーンへ出勤する。風邪がぶりかえすとこわいからと昼夜の間は外へはいかずにお弁当買ってたべる。チト埃っぽい楽屋で食べるほうがぶりかえしそうな気もするが・・・

6月22日(金)
 どうやら風邪は真剣に治ったようだ。ああ良かった。なんだか前より調子が良い。たとえ調子が悪くったって仕事の予定は変更できないのだから、体のほうも気張ってくれたのかもしれない。今日のように昼の部だけのときはダッシュで帰ってお稽古をする。お弟子さんと僕とどっちが稽古場に早くつくかを競走しているようだ。それも楽しんでやってんだけど。そうそう自分でそう決めてるわけだし、シンドイと思ったらおしまいってとこあるわな。みんなそうやって生きてんだもの。

6月23日(土)
 娘が「パパ、あしたゆっくりできる?」と、ここんとこ毎日聞く。「ゆっくりしたいんだけど、そうもいかないなぁ」と答える。なにやら怪しげな会話のようだが・・・。毎日僕がいるのに自分と遊ぶ時間がないことがイヤなのだ。
 なんかかんかとはぐらかしていたが、「だってさ、おまえがこの前見たバッタリをまだずーっと毎日やってて、いっぱいお客さんきてるのに休めないじゃん」とはっきり言ってみた。「えっ、しょうなんだ、じゅーとやってんの?」「ずーっとやってますよ、犬が出てきて雪がふるまでを毎日毎日」「へーっ、しょうかぁ」となにやら感心したらしい。分かってくれたんだな、子供なりに、ジャしょうがないんだなとおもったんだな。よしよし、ちょっとかわいそうな気もするが、諦めてもらってホッとしたよ、うんうん。しばらくすると「じゃ、バッタリがぜーんぶ終わったらいっぱいあそぼうね」・・・諦めてるわけではないんだな。

6月24日(日)
 30日に松永の大きなおさらい会がある。舞台のほかにもたくさんの仕事がある。楽屋の割り振りから始まって受付、巻物、お弁当、進行等々の係。それらを決めるべく若手の精鋭(?)たちが家元宅に集合し、ああでもないこうでもない、誰にしよう彼にしようと頭をひねり当日に備えるのであった。もちろん本日もコクーンに行ってまいりましたよ。

6月27日(月)
 コクーン千秋楽。あめでとうございまーーーす。
 明日が早いから打ち上げは参加しないようにと思っていたが、ロビーでやるという気軽さから、断ることをしない伝の会というとこか、気がついたら乾杯していた。このロビーで集った初日後のパーティが昨日のようだ。すぎてしまえばあっという間ということか。
 今夜の舞台の大詰を客席に回って見ていた。雪の中での三人だけの立ち回り(?)のとき、拍手と歓声が湧き、鳴りやまなかった。こんなことは初めてだった。勘九郎丈も「良い意味で芝居がとまってしまった」と言っていた。客席で見ていてもこんなに興奮したことはなかった。まさしくコクーンの千秋楽だった。
 はぁー終わったぁ。大イベントのお手伝いをさせていただいているという実感からか、開放感もひとしおである。「おつかれさまー、ありがとう」と最後に串田さんが握手をしてくれた。

6月28日(火)
 あっという間に朝がきて、三味線積んで久々に車ででかける。30日の「四世松永和風・九世松永鉄五郎 追善長唄演奏会」の下ざらいのため、九段下の日刊工業新聞ホールへ。弾いてるうちにコクーン疲れが出てきた。うーん、がんばれ。21時終了。ホッ、なんという開放感だ。家帰っても朦朧とし、早々就寝。

6月29日(水)
 幼稚園では今日ジャガイモ掘りだそうだ。「ジャガイモ掘におくれるぞー」と言ったら寝ぼすけの娘が シャキっと起きた。運動着の上下に制服の帽子かぶって長靴姿というのが本日のユニホームだそうだ。喜々としてその格好をしている娘を見てると半笑いになるわあな。
 7月2日から「魚屋宗五郎」の巡業に参加させていただく。その稽古のために前進座に行く。帰って二人お稽古する。

6月30日(木)
 おやっ、雨が降ってきた。やむといいなぁと思いながら、国立劇場にむかう。「四世松永和風・九世松永鉄五郎 追善長唄演奏会」当日です。家元(忠五郎師)のおじいさまの和風師がお亡くなりになったのは昭和37(1962)年9月26日というから当然僕はお会いしたこともなく、どころかまだ2才だし20才まで長唄の「な」の字もしらんのやから何か語るということは、おそれおおくて到底できない。
 しかし家元のお父様の鉄五郎師匠のことはようく存じております。僕の名前の鉄九郎も鉄五郎師匠の末っ子という意味も含んでいるのです(実際は孫弟子なんですが)。物静かな品のあるお師匠さんでした。鉄五郎師匠がお亡くなりになったの昭和63(1988)年5月31日。和佐次朗師と僕とヒロキ(忠次郎)は翌日から中村雁治郎(当時・扇雀)丈の公演で二ヶ月のカナダ・アメリカ・メキシコの巡業に行くことになっていたのです。
 夜も遅くなり明日早くに成田から旅立たなくてはいけないので、「もうそろそろお暇したほうが」という雰囲気になったとき、鉄五郎師の枕元にいた和佐次朗師が「ワシャまだ帰えらんぞ、もう少しおやじさんのそばにいさせてくれ」と言った言葉と声が今でも耳の奥に残っています。その時の和佐次朗さんの姿を見ていて、師匠が亡くなるということ、そしてお葬式にも出られないというつらさ、どんな気持ちなのかなぁと思っていましたが、その和佐次朗師が亡くなった三年前に痛いほどわかりました。そして今に至ってもなお変わっていません。みんな順番にこんな思いをしていく世界なんだなあと思います。
 そして僕らの中では五月に他界された孝次郎師のことが思いだされます。ご出演する予定だったのですから・・・。孝次郎師の高弟の孝柳(藤澤繁氏)さんが「時雨西行」をお唄いになりました。下ざらいのあと、お笛の幸之助(梅屋)さんが「唄が孝次郎さんによく似てるね」と振り返って僕に話しかけました。本番が終わったら上調子を弾かれた祐介(稀音家)さんが「孝次郎さんそっくりだね」と言ってました。藤澤さんに挨拶に言ったら「ごめんね、唄いながら泣いちゃったよ、だらしがないね」とおっしゃってました。孝次郎師への追善演奏会でもあったのです。
 もうひとり僕の兄弟子の鉄次郎さんが昨年亡くなっています。鉄次郎兄さんが入門したあと松永にはプロになる人がいなくて、僕が名取になるまでの16年間「下っ端」だったとこぼしてました。「やっと下に入ってきたらと思ったら、えらく生意気な奴で、先輩の俺には意見するし、やってらんねぇよ。はははは」とよく言ってました。
 今日一日、この空間にいて、いろんな思いがありました。そして家元のご子息の考広くん(中学生)と直矢くん(小学生)も立派に舞台にたち、ウチのお弟子も手伝わせていただき、ヒロキとウチの子どもは走りまわりと。時代はどんどん変わって来ていること、そしてそれがみんな師弟という絆で結ばれていること。だから僕なんかが「追善演奏会」にお手伝いさせていただけるのだと感謝した日でした。今日の雨はいろんな人へのいろんな思いの雨。


環八と通いの巡業

7月1日(日)
 獅童くん宅でお稽古のあと前進座劇場へ行き「魚屋宗五郎」の舞台稽古。はああああ疲れた。久々に西台の大勝軒につけそばを食べに行く。うーーー、おいしい。随分と食べてなかったなぁ。いやあ、しあわせでんがな。

7月2日(月)
 なんですか、昨日はえらく暑い日で36度もあったそうで。すごいね梅雨なのに。今日も昨日と同じ感じの陽気で、水不足になっちゃわないかと心配してしまいます。巡業初日です。川崎のエポック中原というところへ行く。道が以外にすいていて、真夏の午後のドライブという感じです。

7月3日(火)
 この三日間、30度こえてんじゃない。30分外にいたら日射病になりそうになった。

7月4日(水)
毎日環八を通って川崎方面にむかう。
暑さで道が揺らいでいる。
渋滞にたいくつしている営業マンたち。
日傘をさし、バスを待つ人たち。
甲州街道と交差する。
何年か前まで甲州街道が僕のメインストリートだった。住む場所が変わればメインも変わる。
あたりまえのことだけど、どこか淋しくもある。
道の方も今では僕に知らん顔をする。
なにごともなかったような顔をする。
それでいいのだと思う。
けれども、いまだ僕は甲州街道の方が詳しいのだ。
道は不思議だ。
どこにでも行けるものなのに、どこにもいけなくなるときもある。
すてきな道もある。
嫌いな道もある。
すぐ横にとおっているのに一生通らない道もある。
どの道を通ってもこの道に出てしまう道もある。
通りたくないのに必ずとおってしまう道もある。
避けて通りたいのに、曲がりたいのに。
避けたくないのに、曲がりたくないのに。
好きな道なのに、いつまでたっても通れない道がある。
通らなければあこがれで、通ればたいしたことのない道。
地図でみれば一本の線で、通ってみてはじめて道となる。

7月5日(木)
 今日も、うだるような暑さの中、ふと宮前平まで電車で行ってみようと思いたった。山手線に乗って渋谷へ行く。ほんの十日前まで毎日渋谷へ通っていたのに、遠い昔のよう。なつかしい感じがする。人間の感覚って面白いものだ。田園都市線に乗って宮前平へ。ここにくるまでに汗でびっしょり。まずシャワー浴びたい。楽屋入りしても汗がひかない。もうこうなると逆に気持ちがよござんすなぁ。
 帰りの田園都市線でウトウトした。ハッと気がつくとなんやら乗り過ごした感じがしたのでなに気に降りた。降りたホームの表示を見ると「渋谷方面」とある。なんや、乗り過ごしてないじゃん。なんか地味ーにまぬけなことしてる。これも暑さのせいやな。

7月6日(金)
大粒の雨がふってきたよ。
始まってない夏がおわりそうな。
隣りの小学校から子供たちのはしゃぐ声が響いてる。
雨に困る人、楽しむ子供たち。

7月7日(土)
 七夕の今日は曇り空から昼間は良い天気になり、夜になったらまた雲におおわれて星空を観ることは出来なかった。
 邦さん乗せて昨日に続き川崎市幸市民会館へ。毎日毎日環八を走って少々疲れ気味・・・。
なんて言っちゃいけないやね。

7月8日(日)
 本日は「通いの巡業」の最終日。多摩市民会館にむかう。行楽日和の天気だな。相変わらず30度コースの今日、ちょっと早めに楽屋入りをするため出発。毎日多摩川を渡っているな。川はいいなぁ。18時すぎ終演。はあ終わった、終わった。二日間休んで高知から本格的に巡業が始まる。そう、まだ巡業始まったばっかりなんだけど、「通いの巡業」が終わったと思うとエラくうれしい。

7月9日(月)
 今日はお稽古日です。もうすぐお盆だ。
 去年、父が亡くなったので新盆だ。提灯とかを出さなきゃと、さがすとなかなか見付からない。「うー、父さんどこにしまってあんだよー」ふて腐れていると、じきにみつかった。奇麗にしまってある。傷がつかないように、電球は割れないようにときれいに紙でつつんである。
 お父さん、この提灯を一人で丁寧にしまったんだね。あぐらかいて背中丸めてしまったんだね。お父さんの手の温もりが感じてくるよ。次ぎは自分のために僕が飾るって思ってもみなかったでしょう?明日から巡業で高知にいっちゃうから、お迎えとかできなくてごめんね。妻と娘がするからね。孫に迎えてもらえりゃいいやね。僕は南国土佐で祈ってるよ。

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